アジア民衆史研究会2022年度第2回研究会「東アジア近代における民衆暴力の諸相」を会場・オンラインのハイブリットで開催します。
概要
日にち:2022年1月22日(日)
時間:13:00開始
場所:早稲田大学戸山キャンパス33号館3階第1会議室(Zoomを併用したハイブリッド形式)
報告者(タイトルは仮)
- 吉澤誠一郎「中国近現代史研究と民衆暴力」
- 小川原宏幸「植民地朝鮮の地域秩序再編と民衆暴力のゆくえー醴泉事件を焦点に」
- 中嶋久人「戦後社会運動において暴力はどのように描かれたかー「極左冒険主義」を中心に」
スケジュール
- 開会・注意事項の説明
- 吉澤報告
- 小川原報告
- 中嶋報告
- 総合討論
- 閉会
参加費(レジュメ代)
- 会場参加:300円
- オンライン参加:無料
申し込み方法
参加を希望される方は、Googleフォームにメールアドレス等の必要事項をご登録ください。
2023年1月21日17時までに招待メールをお送りいたします。
注意事項
- 申込は前々日1月20日(金)までにお済ませください。
- 皆様の参加形態の事前把握のため、会場参加であっても事前申し込みをお願いします。なお、会場参加で申し込まれた場合でも、当日にオンライン参加に変更することは可能です。
- 会場となる早稲田大学の感染防止対策を遵守するよう、お願いいたします。
- 報告者の研究成果を剽窃するなど、研究倫理に反する行為を行わないことを求めます。
オンラインでのご参加にあたって
- ホストが認めた者以外の録音・録画は禁止となっています。
- 会の運営に支障をきたすと判断した場合、ホストの権限で強制退出させる場合がございます。
趣旨文「東アジア近代における民衆暴力の諸相」
現在進行中のロシア・ウクライナ危機は、戦争という強力な国家暴力を世界に見せつけている。その影響は当事国のみに止まらず、義憤に駆り立てられて戦場に身を投じる人がいるいっぽう、報道映像に接しただけで心的外傷を受ける人もいるなど、この暴力をめぐって様々な反応が起きている。日本においては、これまでの原則に反する軍拡の議論も加速している。私たちに、改めて暴力との向き合い方を問いかけた出来事であると言えよう。もっとも、暴力の問題は戦争のようなあからさまな事例に限られるものではない。黒人男性が白人警官に暴行を受けて死亡した事件を契機に広がったBLM運動は、社会の日常に潜んでいた暴力に対する異議申し立てとして、記憶に新しい。
現代世界において、暴力は様々な形で発現している。しかしながら、私たちが暴力をありのままに認識することには困難がともなう。何が暴力となるかは、状況によって可変的だからである。様々な論理や規範が複雑に絡み合い、ある場合には人びとを実践へと向かわせ、ある場合には人びとの実践を抑制する。また、それらの実践に対して、ある場合には賛辞が贈られるいっぽう、ある場合には非難が向けられ、事実が隠蔽されることもあるというように、暴力は、時代、地域、文化、社会構造、主体など、それぞれの文脈に依存している。したがって、こうした個々の歴史的文脈を明らかにし、議論の俎上にのせていくことが、いま歴史学にとって喫緊の課題の一つとして求められていると言える。
日本の歴史学において、暴力、とりわけ民衆暴力の研究は一定の蓄積をもつ(須田努・趙景達・中嶋久人編『暴力の地平を超えて 歴史学からの挑戦』青木書店、2004年など)。それは、人民闘争史観へのアンチテーゼとして、国家・社会との関係性のなかで等身大の民衆像を描こうとする含意があった。しかし、市民運動が非暴力化していった戦後社会の変化のなかで、それほど活発に議論がなされてきたとは言えない。むしろ、「暴力はいけない」という常識的な倫理観が、かえって暴力への無感覚を生み出すことが危惧される現状があり、歴史のなかの暴力を理解することを通じて、私たちの認識を鍛えていく必要が指摘されている(藤野裕子『民衆暴力』中央公論新社、2020年)。
ただし、様々に文脈の異なる暴力を歴史的に位置づけ、議論していくには、比較の視点が必要となってこよう。総じて近代は、社会のなかの暴力を否定して、国家が独占する体制をつくったと言えるが、東アジアにおける近代の経験の仕方は、地域ごとに異なっている。例えば、明治維新以降、急速な近代化を進め、対外侵略をしていった日本における民衆暴力と、日本の植民地支配のもとで発現する朝鮮民衆の暴力、日本の経済的侵略によりナショナリズムを高揚させていく状況下における中国民衆の暴力は、国家・社会との関係において、その意味を直ちに同一視することができない。様々な文脈を比較することによって個々の暴力の意味が明らかとなり、また相互の共通点や連関性が見えてくることによって、地域の経験に即して暴力への認識を深めることができると考えられる。
以上のことを念頭に、本シンポジウムでは、日本・朝鮮・中国の近現代史における民衆暴力の諸相を取り上げる。国家によって徐々に暴力が否定されていく社会のなかで、それぞれの民衆暴力はいかに発現し、どのように認識されたのか。そして、その歴史的な意味はどのように考えればよいだろうか。活発な議論を期待したい。
コメント