老いをめぐるポリティクス
アジア民衆史研究会では2001年度以来、中長期的なテーマとして「東アジアにおける民衆の世界観」を掲げている。空間・時間・人間に関わる意識総体を〈世界観〉として把握し、そこからアジア地域における民衆の主体形成の問題を検討することを課題としている。
アジア民衆史研究会では2001年度以来、中長期的なテーマとして「東アジアにおける民衆の世界観」を掲げている。空間・時間・人間に関わる意識総体を〈世界観〉として把握し、そこからアジア地域における民衆の主体形成の問題を検討することを課題としている。
このテーマのもと、2001年度は民衆の〈世界観〉の一側面として「君主観」の問題を取り上げ、続いて2002年度は、「他者をめぐる空間認識」の問題を取り上げた。民衆は自らの所属している空間をどのように認識しているのか、という問題意識のもと、2002年度は大きく視野を広げ自己と他者との関係の中における空間認識を検討した。さらに2003年度には特に権力関係の中での空間認識の問題を検討し、支配層と民衆との認識のズレの問題について検討することが出来た。また、「境界」というものがアプリオリに存在するのではなく、「他者」との出会いを通じて形成されていくものであること等についても、幅広い議論をすることが出来た。2004年度においては、移動の結果として起こる接触という場面から、どのような世界観が形成され、ないしは変容をとげたのかという問題をとりあげ、直接的には国家を意識していない民衆独自の空間認識の検討を試みた。2005年度は世界観を創出する行為としての〈語り〉に注目し、特に東アジア地域共通の経験としてウェスタンインパクトについてのさまざまな〈語り〉を検討し、〈語り〉のエコノミーの相対的な自律性とその転移・再利用あるいは再生産、〈語り〉を媒介とした社会認識の構築あるいは運動を考察することができた。
しかし、こうした成果を得る一方で、いくつかの課題も浮上してきた。
一つは、近世・近代移行期における多少の逸脱やせめぎあいも終局的には国民国家のイデオロギー編成に収斂するという、国民国家論の問題圏を越えられていないのではないか、ということ。いま一つは、民衆の世界観という問題を考えるにあたっては、観念形態だけではなく、具体的な事象からも接近しなければならないのではないか、ということである。
こうした点を踏まえ、2006年度は、19世紀から20世紀にかけての東アジア地域における「民衆の世界観」の変容過程を考えるための手がかりとして、「死をめぐるポリティクス」というテーマを掲げた。
「ポリティクス」の意図するところは、還元論的な議論に陥ることなく、近代に対する民衆の緊張関係を孕んだ対応として、身近で微細な権力・政治の闘争を観察すること。そして、その観察の中にマクロ・ポリティクスへの契機を見出すことにあった。一方で、分析対象として「死」を選んだのは、「死」が生を受けた者にとって必然であるがゆえに、民衆の世界観を構成する基礎となりうること。それはまた、すぐれて私的な出来事にもかかわらず、さまざまな権力が介入・相克する空間として想定されるためであった。
こうした観点で「死」という事象の検討を行なった結果、死者の葬り方や墓地のあり方などに対し、近世・近代移行期の権力が多様なかたちで介入し、地域社会や民衆との相克を孕みつつ、新たな変容を生じさせていく様相が明らかとなった。このことは、「死」にかぎらず、人々の多くが通過するライフコースの様々な場面において、同様の事態が起こっている可能性を私たちに予感させるものであった。そこで、今年度は昨年度の問題意識を引き継ぎつつ、ライフコースにおいて重要な位置を占める、民衆の「老い」の問題に光を当てたい。
人は誰しも老いる以上、社会が老いた人々をいかに処遇すべきかという問題は常に存在する。すなわち、「老い」は時代を問わず、多様な権力の介入を想起しうる問題として考えることができるのである。そもそも「老い」という概念は相対的なものであるから、何を「老い」の指標とし、どのような実践を行うのかは、家族や地域、国家など、「老い」を包摂するそれぞれの社会による。結果、定義される「老い」と実践(例えば扶養制度)とは多様なものとなり、しばしば干渉・相克することになるであろう。
それだけではなく、「老い」をめぐる概念や実践を背後で規定するところの「老い」に対する認識・価値観も、本来は、死への接近・衰退の過程であると同時に人生の成熟や到達点でもあるという、両義性を帯びたものであろう。近代産業社会の出現によって、「老い」はもっぱら否定的な価値へ転化されていったといわれる。それは、前近代の伝統的社会では、年長者の経験が「知恵」として大きな役割を果たしたのに対し、変動の激しい近代的社会においては、そうした経験はもはや役に立たないものと一蹴され、専ら「新しさ」=「若さ」に価値がおかれるようになる、という理解においてである。
「老い」の問題における近代の画期性をこのような価値観の変容によって示すことの妥当性自体、検討すべき問題であろうし、また、そのような変容がみられるにせよ、その過程は近代化の担い手や受容のあり方に即して、かつ、介入する諸権力の「老い」の実践をめぐる相克の中で、相互に影響しつつ展開されたはずである。それはいかなる様相をみせたのか。
宗教的規範や植民地化とのかかわりについても視野に納めつつ、「老いをめぐるポリティクス」という検討課題を通じて、東アジア地域における民衆の世界観の一端を提示したい。
文責:佐川享平
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